めがね課長です。
今回から数回に分けて、私の「底辺人生」を振り返る記事をアップしていくことにしました。
高卒フリーターから工場勤務に至るまでの私の人生を共有することで、半面教師としてみなさんのお役に立てれば幸いです。
食品工場(大手関連会社)オペレーター歴18年。
現在も課長職として働く高卒・工場ワーカー。
過去に記者、IT関連営業など10を超える職種を経験。
現在は副業でブログ運営、Webライターとして活動しながら、定年後の”独立”をめざしています。
大学に進学できなかった理由
第1回目の今回は、私が高校を卒業してから上京するまで。
時代は1980年代、日本がバブル経済に向かって華やかに羽ばたいていた時代です。
その時代背景の中で、私がどんな道を歩んできたのか、振り返っていきましょう。
高校3年生の頃、私は文系の進学校に通っていました。将来の成功を夢見て、普通に勉強する毎日。
しかし、思わぬ出会いが私の運命を変えてしまいました。
それは、留年してきた一人の友人との出会い。彼は常に陽気で、自分のペースで生きているような人でした。
ふとしたことで親しくなり、気づけば授業をサボって彼と遊ぶ日が増えていきました。
周囲の友人たちが必死に受験勉強に取り組む中で、私は日々を楽しむことに夢中でした。
その結果、ただ1校受験した大学に落ちてしまいます。
遊んでいて受験に合格できるほど甘いわけがありません。
1校しか受験しなかったのは、家庭が貧乏で受験料すらままならなかったからです。
今では高校無償化が実施され、高校の授業料は実質無料です。
しかし当時はそのような制度がなく、私は貸与奨学金で高校を卒業しました。
当然、大学の費用を親に頼ることもできず、もっと入りやすい大学に行くという選択肢もありませんでした。
振り返ると、ここが私の人生最大の分岐点だったように思います。
受験勉強をしっかりやらなかったのは、私自身の甘い考えが一番の原因です。
しかし、人生経験の少ない若者には、やはり進路のアドバイスをしてくれる大人が必要です。
就職にせよ、進学にせよ、なるべく早い時期に目標を定めることが大切でしょう。
このような経験があり、私は自分の子供には歩みたい道に進めるよう、気を配ってきました。
現在では上の子供は私立大学を卒業して、大企業の100%子会社に就職。
下の子は国立大学1年生です。
上の子には奨学金の負担を背負って欲しくなかったので、すべて親が負担しました。
下の子もそうしたいと考えています。
ひとまず、親の責任を果たせそうで安心しています。
東京でのフリーター生活
高校卒業と同時に、就職活動もしていなかった私は、自然とフリーターとしての道を歩むことになりました。
一番最初に働いたのは、地元の飲食店です。
お客さんに料理を運ぶたびに「これからどうしよう」という漠然とした不安がつきまとっていました。
飲食店での仕事は楽しい仲間にも恵まれましたが、一方で本当にやりたいことは何か、と自問自答を繰り返していました。
そして、頭の中に浮かび上がったのが「上京したい」という夢でした。
19歳、私はついに決断しました。東京で新しい生活を始める資金を貯めるため、寮付きの工場で働き始めたのです。
実家を離れ、新しい環境に飛び込むことで、本格的に社会人のスタートを切りました。
派遣社員として、クルマの部品を作る工場での3交替勤務。
若かったため、体力的にきついと感じた記憶はありません。
しかし、いくら稼げるとはいえ、今では絶対に無理ですね。
約1年間の働きで上京資金が貯まり、ついに夢の東京生活が始まります。
私が最初に借りた部屋は、東中野の4畳半一間、風呂なし、トイレ共同のアパート。家賃は32000円。
それでも自分だけの空間がある喜びは、格別なものでした。
東京での新しい生活は新鮮な経験の連続です。
「フロムエー」を片手に、様々な仕事に挑戦しました。
「フロムエー」とは、リクルート社が発行していたアルバイ情報誌です。
「フリーター」という言葉を生み出したのはこの情報誌です。
毎週火曜と金曜に発売され、「火火金金火金金」という、CMソングのフレーズが印象的でした。
当時はインターネットがまだなく、情報源はほぼ紙媒体のみでした。
バブル景気に浮かれていた当時の日本、特に東京では、フリーターが「新しい自由な働き方」として、もてはやされていたように思います。
私はコンサートスタッフや製本工場の作業員、引っ越しの助手など、多くのバイトを転々としました。
特に印象に残っているのは、マイケルジャクソンの東京ドーム公演のスタッフの仕事です。
通路でステージを背に立ち、観客を見張るお仕事。
ライブ開始とともに大歓声で迎えられたマイケル。思わず振り向いて見たその姿は、とても神々しく輝いていたことを思い出します。
社会人として歩き出したばかりの私でしたが、多くの仕事を経験することで、様々な職種や人とのコミュニケーションを学ぶことができました。
そして、そんなバイトの中で、友人から紹介された販売員、いわゆる「マネキン」の仕事が転機となりました。
勤務先は都内の有名デパートの食品売り場。いわゆる「デパ地下」です。
好景気だった当時は、高価な食品も飛ぶように売れました。
販売員の仕事では、ただ商品を売るだけでなく、どうすればお客さんに喜んでもらえるか、工夫を凝らすことが大切でした。
そのおかげで次第に売り上げも伸び、目立つ存在となることができました。
収入も少しずつ増え、生活が安定してきたのです。
とはいえ、雇用形態は正社員ではなく派遣社員。
将来的に不安定なことに変わりはありませんでした。
新しい仕事に慣れた頃、私は中野の6畳1Kのアパートに引っ越すことにしました。
家賃64000円の部屋は広く、ようやく自分らしい生活ができるようになったのです。
勤務先で出会った彼女もでき、東京ライフを満喫。順風満帆に思えました。
しかし、この安定した生活も長くは続きませんでした。
バブルの崩壊です。
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