今では伝説のように語られる「バブル時代」。
街は活気に満ち溢れ、多くの人々が未来に無限の期待を抱いていました。
私もその熱狂に身をおいていましたが、1991年、その泡は弾けました。
誰もが予測できなかったこの出来事の影響は甚大で、各企業は急激に体制の縮小を迫られ、人員削減に踏み切りました。そうです、私もその煽りを受けた一人です。
食品工場(大手関連会社)オペレーター歴18年。
現在も課長職として働く高卒・工場ワーカー。
過去に記者、IT関連営業など10を超える職種を経験。
現在は副業でブログ運営、Webライターとして活動しながら、定年後の”独立”をめざしています。
販売員から出版社へ
デパートでの販売員として働いていた私は職を失い、再び求職活動を始めることになります。
あの時代、再就職は今以上に厳しいものでした。
それでも、何とか見つけたのは新宿・歌舞伎町にあるディスカウントショップでの家電販売の仕事でした。
あの頃の歌舞伎町といえば、もともと賑やかな場所でしたが、バブル崩壊の影響もあって、活気を失いつつありました。
ですが、そんな中でも新しい業態として注目されていたディスカウントショップは急成長を遂げており、私はその波に乗ることができました。
その後、家電量販店で販売員として雇われ、業界について学ぶ機会を得ました。
新しい技術や製品に囲まれる環境は刺激的で、私自身も日々成長している実感を持つことができました。
とりあえず継続できる職を得ることができたのは本当にラッキーでした。
しかし、私はいつも心の片隅で、幼い頃から一度は挑戦したかった「マスコミの世界」への思いを捨てきれずにいました。
ようやく、小さな出版社に正社員として採用されることが決まり、この業界に本格的に足を踏み入れることになりました。
この出版社についてはいわく付きの部分が多いので、その詳細はまた別の機会にお話ししようと思いますが、ここでの経験は私の人生に大きく影響を与えました。
出版社では、まず紙媒体の広告営業を担当しました。
固定給と歩合制の給与体系の中で、アポイントメントをとり、外回りの営業活動を繰り返す日々が続きました。
成果を上げた月は、月収が80万円にも届くことがありました。
しかし私の性格は営業向けではない、そう痛感することも多々ありました。
そこで、営業から編集部への異動を希望しました。
運よくそれが認められ、今度は取材記者としての役割を担うことになりました。
格闘技やプロレス、競馬、ボートレースなどの取材記事を担当することになり、私は新たな形での刺激とやりがいを感じました。
小さな頃から文章を書くことが得意だった私にとって、この仕事はまさに理想的でした。
そして、この経験が現在のブログ執筆や副業ライターとしての活動にとても役立っていると感じます。
この時代には個人向けの携帯電話、PHSが登場し、通信技術が急速に進化していく様子を間近で体験しました。
それまでのおもな通信手段は公衆電話とポケベル、そしてファックスです。
また、紙とペンが主流だった記事執筆もワープロ、そしてパソコンへ。
出版業界にも大きな変化の波が押し寄せていました。
この出版社で過ごした時間は、その後の人生に大きな影響を与えました。
ここで出会った彼女と付き合うことになり、やがて結婚を決意しました。
幸せな家庭を築くことができた一方で、子供を育てることを考えると、やはり収入への不安が拭えませんでした。
IT時代の到来
インターネットという新たな時代の訪れを感じ、私は出版社からレンタルサーバーの営業職へと転職しました。
その職場は厳しいことで有名な「某〇通信」系列のベンチャー企業で、ITの可能性に胸躍らせる日々が続きました。
新しい市場の開拓に携わることができる喜びがありましたが、シェア獲得競争に負けて会社は倒産してしまいます。
このベンチャー企業での営業にまつわる逸話も、また別の動画でお話ししたいと思います。
続いて、今で言うウーバーイーツのようなビジネスモデルを展開するベンチャー企業に身を投じました。
しかし、こちらも資金不足が続き倒産しました。時代が早すぎたようです。
さらに、友人の会社で広告営業を務めるも、収入の不安は消え去ることなく、私は常に次の一手を考え続ける状態でした。
そんな中で、私は自分の人生を根本から見直し、大きな決断をすることになりました。
それについては、次回の記事で詳しくお話ししたいと思います。
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