めがね課長です。
今回は、高卒工場勤務の底辺物語、「離婚危機編」をお届けします。
前回までは高校を卒業しフリーターとして上京したエピソード、そして現実の厳しさに直面し、東京での生活に見切りをつけ地方移住を決断するまでのストーリーをお話ししてきました。
まだご覧いただいていない方は、ぜひそちらもチェックしてみてください。
食品工場(大手関連会社)オペレーター歴18年。
現在も課長職として働く高卒・工場ワーカー。
過去に記者、IT関連営業など10を超える職種を経験。
現在は副業でブログ運営、Webライターとして活動しながら、定年後の”独立”をめざしています。
人生を賭けた転職活動
前回の記事では、私はパチンコ店で働いていました。
しかし、その仕事に対する不満や、より良い生活を求める気持ちから、ついには退職を決意しました。
妻にそのことを告げると、彼女は呆れ果て、離婚届まで突き付けられました。
「今の仕事を辞めるまでの1か月で絶対に次の仕事を見つける」
その約束を果たすべく、翌日からハローワークに通い始めました。
2006年の日本は、バブル崩壊後の長引く不況からようやく回復の兆しを見せ始めた時期でもありました。
しかし、依然として完全回復には程遠く、失業率も高い状態が続いていました。
そのため、多くの人が安定した職を求めてハローワークへ足を運ぶ姿は、当時の社会の縮図だったと言えるでしょう。
平日の朝、開場30分前に到着すると、駐車場はすでにほぼ満席。
入口前には、多くの人々が列を作って待ち構えている様子でした。
開場とともに中へ入り、まずは求職申し込み書を記入します。
そこから求人検索端末で自分に合った仕事を探し始めるわけですが、自分の条件に合う職は限られていました。
37歳という年齢もあり、即戦力を求める企業からは不利に働くこともありました。
何度もハローワークに足を運び、手探りで求人を見つけていく日々が続きました。
時間がかかる一方で、退職日が刻一刻と迫っていました。
「次の仕事が見つかるまで毎日通えるわけではない」、そんな焦燥感が常に心にありました。
2006年は、リーマンショック直前の年であり、世界経済も不安定な側面がありましたが、その中で安定した職探しを行うのは容易ではありませんでした。
時間が経つにつれて、退職日がすぐそこに近づき、手に汗握る思いでの日々が続きました。
目にとまった「食品製造オペレーター」の求人
そして、ついに退職まであと1週間というタイミングがやって来ます。
そんなとき、「食品製造オペレーター」の求人が目に留まりました。
それは中小の食品工場でのオペレーター職。
これまで経験したことのない業界で、どのような仕事かはよく分かりませんでしたが、興味を引く条件が並んでいました。
「週休二日制、賞与年2回、昇給、その他各種手当あり」これに心を奪われました。
特に惹かれたのは、「週休二日」という響きでした。
これまで私が経験してきた仕事は、どれも週休1日が当たり前で、週休二日は夢のような待遇です。
そして、何より大きなポイントとして、37歳という私の年齢でも応募できることがありました。
さっそく窓口へ向かい、面接を希望。
担当者から「もう何人か紹介していますから、難しいかもしれませんよ」と言われましたが、そこで引き下がることは考えられません。
「ダメかもしれませんが、ぜひ面接をお願いします」とお願いし、面接の約束を取り付けました。
翌日、緊張感を持って面接に臨みました。
私は、自分の現在の状況や、次の会社では必ず長く勤めるという強い決意を語りました。
早急に結果が欲しい私ですが、「結果は1週間後に」という回答。
しかし、この1週間後には私は既に「無職」の状態です。
それは妻との「離婚」が現実になりかねないことを意味しています。
不安と緊張で心が占められる中、まだできることはあると信じて求人誌などにも目を通します。
しかし、私の条件に合う仕事はなかなか見つかりません。
この1週間は、「祈るような思い」で過ごしました。
これほどまでに「採用」を願った転職活動は、これが初めてでした。
そしてついに、1週間後、電話が鳴り、「採用」の連絡が入った瞬間、私は思わずガッツポーズをしました。
嬉しさが込み上げてきて、涙がこぼれるほどでした。
すぐに妻にそのことを伝えると、彼女は「そう、良かったね」と一言。
それでも、彼女の顔には安堵の色が滲んでいました。
このようにして間一髪、離婚の危機は去りました。
この経験も私の人生における、大きな分かれ道でした。
この中小の食品工場が、現在も私が勤めている会社です。
あれから早いもので、18年が過ぎました。
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